川崎のこれまでの人生模様です。
1977年11月30日に、母の地元神戸で生まれました。
その後、父の仕事の都合で名古屋、甲府、広島市、山口市、練馬区、所沢市と、転々としていました。
転校や引っ越しが多く、正直言って、幼少期はあまり良い思い出ではありません。
幼少期は、ガリガリで身体も弱く、病弱でしたし、人間関係でも苦労しました。
友達ができたと思ったら、転勤で引き離される・・・
よく言えば、いろいろな経験ができたとも言えるのですが、あまり思い出したくない過去ですね(苦笑)
そんな幼少期でしたので、何をやっても冴えないひねくれた自己肯定感が低い子供に育ちました。
私のひねくれた性格や、性格の悪さは、この頃に養われたものと思われます(笑)
東京に定住するようになったのは高校生からです。
この頃からですね、友達にも恵まれ、学校生活を初めて楽しいと思ったのは。
学校生活が楽しすぎて、成績は惨憺たる状態(笑)
そして浪人生活が始まります。
この頃は、今の仕事をするなんて思いもよりませんでしたね。
柔術との出会い
一浪して、理系の大学に入りました。
大学1年生の頃でした。
たまたま友達から借りた、一本のビデオテープが私の人生を大きく変えることになります。
第一回UFCです。
体重無差別で、攻撃に関しては、目潰しと噛み付き以外はあらゆる攻撃が有効とされた。
当時は、金的攻撃もありでした・・・
グローブ・シューズ・道着等の着脱の有無も自由であったので、各々の選手が自由なスタイルで参加、道着を着用する選手や、プロボクサーのジマーソンは左手のみにボクシンググローブを付け、右手は素手のまま登場した。
「最強の格闘技とは何か?最も有効な戦闘技術を有する格闘技とは一体何か?ノールールの戦いの勝者こそが最強だ」との発想からアート・デイビーとSEGが企画。
格闘技はルールがあってこそ安全性が確保され競技として成立するため、「ルールを廃せばそれは喧嘩であり殺し合いにも発展しかねない」との反論の声もあがっていたそうです。
それまで世界的には無名であったブラジルの柔術家ホイス・グレイシーが1回戦でアート・ジマーソン、準決勝でケン・シャムロック、決勝でジェラルド・ゴルドーに全て一本勝ちし、優勝を果たしました。
この胴着を着た痩せた青年(どう見ても強そうに見えない)が、自分よりも巨大な大男達をほぼ無傷で寝技に持ち込み、タップを奪う姿に衝撃を受けました。
ネットがまだそれほど普及していなかった当時はこのホイスグレイシーという選手の情報もなければ、Jiu Jitsu(ブラジリアン柔術)なるものが、どんなものかも不明でした。
「Jiu Jitsuを学びたい」
と興奮したのは未だに覚えています。
大学2年生の頃、ビクビクしながら道場に入門したのを覚えています(笑)
当時は、ほとんど柔術の道場もありませんでしたね。
ブラジリアン柔術のような格闘技をやっていると、ついて回るのががケガです。
今思えば、減量法やケガの考え方や処置などもメチャメチャでした(笑)
柔道整復師になるきっかけ
大学失業後も、就職して柔術を続けていました。
就職しても、長続きせずに転職を繰り返していました。
仕事は続かないくせに、柔術だけは続けていました・・・
理由は「なんとなく」ということ。
これまで大学に進学したのも「なんとなく」
就職したのも「なんとなく」
だから、面白くないし、やりがいもないし、毎日おもしろくない。
柔術だけは違ったんですね。
直感で自分で「やりたい」と思った。
だから続いたんですね。
理由はなんでも良いんですよね。
自分を信じて自分で決めるということ。
これが大事なんですよね、今思えば。
話がそれました。
会社員やりながら、柔術をやっていて、いろいろなケガや身体の不調を経験します。
足首の捻挫、肘の捻挫、肩の捻挫、腰痛、繰り返すギックリ腰、坐骨神経痛、首の痛み、頭痛、肩こり、背中の痛み、膝の痛み、足裏筋膜炎、すねやふくらはぎの痛み、肉離れ、腱鞘炎、突き指など、、、キリがないですね(笑)
整形外科だけでなく、整骨院や整体院、カイロプラクティックなどにお世話になったのは、この頃です。
柔術を始めて、世の中に「人が手で治す仕事」があることを知ります。
正直言って、私の身体の不調は、どの先生に診てもらっても、あまり改善はしませんでした。
自分が治してもらったのを感動してこの業界に入りました!
と書きたいところですが、そうではありません。
正直なところ患者として通っていた頃に「痛い」「怪しい」「怖い」と思うことも多々ありました。
「じゃあ、なんでまた柔道整復師になったんだ?」って思いますよね?
直感的な理由です。
「柔道整復師になって人生を変えたい」と思ったんです。
「なんとなく」じゃなくて、初めて自分の意思で仕事を決めました。
年を取ってもできて、自分を向上させることができる仕事をしたかったというのもありました。
「自己向上することで、人の役にたつ」なんて、最高の仕事ですよね!
そんなことは後付けて、とにかく「柔道整復師になって人生を変えたい」と思ったんです。
もともと「胡散臭い」「怪しい」と思って学校に入りましたから、常にナナメの視点で見る嫌なヤツでしたね・・・
ここでも私の性格の悪さが発揮されてます(笑)
授業でも先生の話が矛盾していたり科学的でないと、突っ込んだり文句言ってました(笑)
お金も時間も、睡眠時間もなかったけど、この頃は毎日イキイキしていました。
「なんとなく」じゃなくて、初めて自分の意思でやっているから。
柔道整復師になって人生を変えて、明るい未来が待っていると思っていました。
転機
柔道整復師の学生時代、2年生の頃に人生初の大病で入院することになります。
そして、事実上この病気がきっかけで、柔術を挫折することになります。
その病気とは、化膿性脊柱炎という病気です。
二ヶ月近く、入院しました。
友達の助けや職場や学校の温情もあり、どうにか復職して、進級することもできました。
こんなに多くの人に支えられていると思ったのは初めてです。
多くの人の優しさに触れて、嬉しくて、泣きました。
嬉しくて泣いたのなんて初めてです。
「なんとなく」じゃなくて、初めて自分の意思で何かアクションを起こすと、こうやって応援してくれたり支えてくれる人が現れるんだなと思いました。
可能性脊柱炎という病以来、私の腰椎の椎間板は溶けてくっついてしまいました。
前屈で手が床につくことはなくなりました。
腰椎がほとんど動かなくなってしまったのです。
実質、柔術をバリバリやっていくのは厳しいですよね。
これ以降、柔術は試合には出ることがなくなり、趣味程度になりました。
柔術はできなくなりましたが、多くの人の優しさに触れ、人生観が大きく変わりました。
病気から、様々なことを学びました。
夢・挫折
すごく変な話なのですが、接骨院ってダサいですよね(笑)
そしてダサい先生が多い気がしませんか?
微妙なサイズ感の白衣に、なんか冴えない髪型・・・
看板も内装もなんかダサい。
ああいう普通の感じの先生にはなりたくないと密かに思っていました(笑)
国家試験に合格し、柔道整復師をして現場に出ることになります。
当時はバリバリ外傷がやりたいと思い、診療所や総合病院などで臨床経験を積むわけです。
当時の就職先は恵比寿。
当時の就職先の診療所の院長をはじめ、先輩やスタッフはお世辞抜きでカッコ良かった!
毎日毎日理不尽に怒鳴られ、患者さんには笑われ、毎日落ち込んでいました。
でも、全くやめようとは思わなかった。
今思えば、「なんとなく」じゃなくて、初めて自分の意思で「ここで働きたい」と決めたから。
「ここで働いて人生を変えたい」と思ったのでしょうね。
が、またここで挫折します。
現実を知ることになります。
画像診断や血液検査ができない状態で、外傷を診るのは危険すぎるということ。
しかも、病院や診療所にもこのご時世外傷はほとんどこないということ。
外来患者さんのほとんどが、慢性疾患ですね。
肩こり、頭痛、腰痛、膝痛、足首痛、手首痛、腱鞘炎など・・・
当時は、診療所でリハビリ、理学療法といっても、やっていることは物理療法やマッサージやストレッチ 。
毎日毎日、親指が腫れ上がり、アイシングをながら仕事していました。
僕にも、そんな時期があったのです(笑)
「これで治しているのかな?」
と疑問を持ちながら仕事をすることになります。
その疑問は日に日に膨れ上がります。
はっきり言って、僕の能力不足ですね。
当時は今と違い、施術のテクニックを学ぼうと思ってもセミナーや勉強会が開催されていませんでした。
当時は、師匠が弟子に伝授する感じでしたので、技術を習得するには、修行先を変えるしかなかったのです。
技術を習得したい!と思いが膨れ上がり、止まらなくなったのです。
割り切って働くという考えもありますが、できませんでしたね。
上司に「辞めたい」という話をしました。
ところが、意外な展開に。
診療所では、某上場企業が出資し、整骨院や訪問マッサージも経営していたのです。
「どうせだったらそっちに行かない?」
「施術のテクニックとかも勉強できるよ」
と言われ、ありがたく受けることにしました。
その後、その会社では分院長も経験し、たくさんの臨床経験を積むのですが、治療という名ばかりで、グイグイ身体を揉みほぐし慰安目的のスタイルが主流でした・・・
また、訪問施術や熱海への出張や勤務、病院での研修など、様々な経験を積むことができました。
また、接骨院を立ち上げたりとか、閉院したりなど様々な経験もします。
さらっと書いているのは、とても書けないことがたくさんあるからです。
例えば、不○◯求・・・(笑)
あまり詳しく書くと、時間がたったとはいえ、誰かに迷惑がかかるかもしれませんので。
この頃を思い出すと色々な感情が入り混じり複雑ですね。
お金だけのこと考えていれば、会社に残った方が良かったのですが、転職することに。
施術技術も上げたかったですしね。
転職
「身体の問題を根本から改善させたい」という想いが強くなっていました。
そ業界最大手の整骨院グループに転職して、揉みほぐす以外の徒手療法を学ぶことになります。
今も施術の基本となっている、全身の関節を、触診して、丁寧に矯正・調整するという施術ですね。
立ち上げからやらせて頂き、院長として勤務し、たくさんの臨床経験もつくことができました。
まあ、激務でしたが・・・
ところが、順調だったのですが、会社の方針が変わったのです。
あまり詳しくは書けないのですが、ここでもデリケートなことになります。
不○◯求・・・の問題ですね。
僕が気にしすぎなのかもしれませんが・・・
そんな頃に転機が訪れます。
震災
結婚を一ヶ月後に控えた頃、大きな転機が訪れます。
東日本大震災です。
東日本大震災がなければ、開業することはなかったでしょう。
明日は何が起きるかわからない。
生きているかもしれないし、死んでいるかもしれない。
とにかく「今を生きる」しかない。
直感的に独立しようと思いました。
ここでも「なんとなく」じゃなくて自分の意思で決めました。
開業
2012年に「ながさき整骨院」をオープンしました。
縁もゆかりもなかった豊島区の東長崎という土地です。
不安でしたが、どうにかこうにかそれなりに患者さんが来てくれ、すぐに軌道に乗りました。
もし開業を考えている方がこの記事を読んでいたら、これだけは断言します。
開業しないと「腕は上がらない」ということ。
開業して、自分の知識不足、技術不足に早々に気がつきます・・・
雇われているときに、指名数がいくら多くても、自分の実力だと勘違いをしちゃダメです。
会社の看板があってこその指名数ですから。
施術技術向上のため、全国を回り、施術技術向上のためにカイロプラクティック、痛みを取ることに特化したテクニック、エネルギー療法、頭蓋骨調整などや様々な整体法を学びました。
それだけでは飽き足らず、サプリメントや栄養学の勉強、身体の使い方を研究するために体操療法、古武術や格闘技、ウエイトトレーニングやトレーニング理論の研究と実践。
私自身が重度のO脚だったことから、独自に「足」「O脚」の研究も始めました。
また、瞑想、クンダリーニ、ヨガ、催眠療法やNLP、コーチングによる心理療法による腰痛施術にいたるまで、あらゆるジャンルに答えを求め、 日本中いろいろなところに出かけて学んできました。
施術技術へのこだわりは、どこよりも高いと自負しています。
新たに師と仰ぐ先生にも出会うことができ、今後も一生勉強は続きます。
こんな感じの人間ですが、ぜひ皆さんとお会いできることを楽しみにしています。